小笠原諸島のハチミツを甘露蜜と特定しました。

 

2022年9月27日の養蜂産業振興会の講演会に出席した「探そう会」のメンバーから「小笠原の甘露蜜の話しはちょっと違うんじゃあないですか?」との連絡がありました。小笠原の甘露蜜特定から3年となる今、事実とは異なった発信がされているようです。以下が小笠原の甘露蜜特定のきっかけと経緯です。

 

小笠原諸島は1543年にスペイン船によって発見されました。その後、長い間無人島でしたが1830年にハワイ経由で欧米人ら25人が移住しました。リーダーだったのはナサナエル・セボりーです。小笠原諸島は明治9年(1876)に日本領土となり、明治11年(1878)に明治政府の内務省勧農局から2群のセイヨウミツバチが父島に移出され小笠原諸島の養蜂がはじまりましたが、太平洋戦争により、昭和19年(1944)に全島民が強制疎開させられ、養蜂は中断しました。欧米系帰化島民のみ帰島が許可された際、セボりー一族は木の洞や岩の割れ目に造巣しているミツバチを捕獲し、巣箱に入れ養蜂を再開しました。小笠原が日本に返還されたのは昭和43年(1968)年です。欧米系以外の前島民が再来島するまでの間も、小笠原の養蜂を継続してきたセボりー家は現在、瀬堀家です。5代目に当たる瀬堀ロッキさんが2001年から養蜂に携わっています。

瀬堀さんは小笠原島のはちみつが年間を通して黒いのはなぜかと養蜂に携わった当初から疑問に思っていました。成分分析に出したいと分析機関を探したこともありました。小笠原の養蜂史調査を進めていた貝瀬は、明治期の小笠原島のはちみつが「白蜜」と記述されている明治政府の資料を発見して以来、小笠原のはちみつを2番目の論文テーマとして明治期の移入植物調査を進めていました。そんな2人に小笠原の黒いはちみつ解明への決定的な情報と出会いが訪れました。

2017年1月に瀬堀さんと貝瀬はオーストリアから訪島したハンバーグさんという地質学者から、オーストリアの「モミの木のはちみつ」の興味深い話を聞きました。花ではなく、アブラムシの付いたモミの木からはちみつが採れるというのです。しかも、そのはちみつは黒いというのです。この情報が、小笠原島の甘露はちみつ特定のために2人が具体的に動き出したきっかけです。

瀬堀さんと貝瀬に、もう一つの大きな出会いが訪れました。読売新聞の宮沢輝夫記者から小笠原島の養蜂について2人に取材が入ったのです。その時、甘露はちみつの判定ができる分析機関探しで暗礁に乗り上げていることを打ち明けたところ、宮沢さんが甘露はちみつに関して幅広い知識を持っているばかりでなく、甘露はちみつの判定可能な2か所の機関に太いパイプがあったのです。即、宮沢さんは瀬堀さんのはちみつを検査機関に持ち込んでくださいました。

2019年3月5日、私たちは「蜂蜜の組成基準8項目検査証明書」を手にしていました。小笠原のハチミツがオーストリアのモミの木のはちみつと同じ甘露はちみつである事が判明したのです。

読売新聞でスクープ扱いをすることとなり幅広く取材がありました。情報提供者に記事内容の責任があります。論文発表前ですが研究成果の一部を担保として差し出しました。記事のこの文面はそういうことなのです。

「ハチミツの歴史に詳しい貝瀬収一さんによると、小笠原では19世紀後半、養蜂が始まった。当時は普通のハチミツで、人の移住に伴って20世紀初頭以降、アブラムシなどが繁殖し、甘露ハチミツに取って代わられたとみられるという。」

 

以上が当事者しか知らない小笠原の甘露はちみつ特定のきっかけと経緯です。私は、小笠原島の養蜂を今日まで継承してきた瀬堀家への敬意とオーストリアのハンバーグさんへの感謝、宮沢さんへの恩義を決して忘れません。

(貝瀬収一、2022/09/29 Facebook「甘露蜜源を探そう会」への投稿より)

 

 

 

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